那珂川町(旧小川町)の城

浄法寺要害(那珂川町浄法寺)36.7868、140.1033
2024年になって確認された城である。
那珂川町の北端、箒川の南岸が浄法寺であるが、そういう寺院は現在ない。あくまで地名である。
この地区には古代の「那須官衙遺跡」がある。
その少し北に那須一族、浄法寺氏の居館、浄法寺館があったという。
←南側「なめり川」方面から見た城址
この浄法寺要害は浄法寺館の西にある箒川と「なめり川」に挟まれた東西に長い尾根状の標高164m、比高約30mの山にある。
その山の東の先端から約150mほど行った場所付近にある。
先端に墓地があり、その裏を行くが、城址までの間には城郭遺構はない。

城は東西約120m、南北約40mの規模であり、東に堀切を介し突き出し約15mの馬出状の曲輪@があり、主郭部とは土橋Aで結ばれる。
馬出の東側は高さ約1mの切岸になっているだけある。

主郭Bは東西約100m、幅約20〜25mの細長く、西に高さ約2mの土塁Cがあり、その外側は掘Dである。
主郭の北側と南側には帯曲輪Eがある。

@土橋上から見た堀切南側。左が馬出状の曲輪。 A馬出状の曲輪から見た土橋と主郭部 B主郭内部、それほどの藪ではなくスッキリしており平坦。
C主郭西側の土塁、高さ約2m。 D Cの土塁の背後、西側の掘。かなり埋没している。 E主郭南側の腰曲輪

この城、Dの堀切が西端であるが、そこから西側は緩斜面であり、高くなって行く。
こちらの方面から攻撃を受ければ弱いと思われるが、特に何もない。西側への警戒は薄い。
東側に馬出のような曲輪があるので敵の想定方向は東である。
このため、東から攻め込んできた敵を迎撃するための城と推定される。
浄法寺館の詰の城と思ったが違うようだ。

片平城(那珂川町片平)

小川町の南西の那珂川を東に見る山上にある。
那須資隆の第八子堅田八郎義隆が築城したと伝わるが伝説の域を出ない。

東円寺南の山の頂上に築かれた山城である。
尾根式の城郭ではなく、丸っぽい山の山頂周囲に横堀を巡らす森田城や戸田城などと似たタイプの城である。
山頂に20アールほどの平地があり、ここが本郭である。
その周囲、3mほど下に幅2m程度の堀が取り巻く。
堀はかなり埋没しており、堀というより前面に土塁を持つ帯曲輪に近い感じである。

西側、南側は腰曲輪があるのみである。
本郭の東斜面に階段状に郭があり、2、3重の横堀が取り巻く。
しかし、ここも堀はかなり埋もれてしまっている。
東の山ろくから見た城址。
丸っぽい山にある。
曲輪U内部。杉の林になっている。 本郭周囲の堀は埋没が激しく、藪である。

郭も平坦さはなくただの緩斜面である。
その東方に50m×70m程のかなり広い平坦地Uがあり、屋敷や蔵があった場所と言われる。
大手は北側の常円寺方面であったという。
城址は手が加わってはいないが、全くの未整備状態であり、倒木が酷く、藪状態で歩くのにも難渋する。
那須氏系の城であったが、元亀元年(1570)、佐竹氏に従う武茂氏の攻撃を受けて落城し、廃城になったという。

(鳥瞰図の町名が小川町となっていますが、馬頭町との合併以前に描いたことによります。)


戸田城(那珂川町東戸田)

片平城の北1.5kmの東2kmに那珂川を見る山上にある。
北側には国道239号線が走り、東の山麓に熊野神社がある。
片平城の支城というが、現地を見ると片平城よりはるかに立派である。

本郭は50m×30mの大きさであるが、その周囲を横堀が1周している。
片平城と違って堀はほとんど埋没していなく、切岸の勾配も鋭い。
北側は尾根に沿って数郭があり、本郭の南側に堀を隔てて二郭があり、その南側は二重堀切で遮断されている。
本郭から熊野神社方面に延びる尾根上の郭は明確ではないが、小さな堀切があり、腰曲輪と思われる平坦地が2箇所ほど見られる。
その尾根の南側の斜面にはやはり曲輪が段々に築かれ、この方面が大手だったようである。
築城者は不明であるが、那須氏系の城郭であったと思われる。
二郭西側の堀 二郭南側の二重堀切 本郭北側の堀

(鳥瞰図の町名が小川町となっていますが、馬頭町との合併以前に描いたことによります。)